【雑誌への寄稿】ニュー・ローカルの設計思想と変化の胎動(『世界』)

『世界』の2021年10月号の特集「脱成長:コロナ時代の変革構想」に、「ニュー・ローカルの設計思想と変化の胎動」と題する論考を寄稿しました。

本稿は、いわば「余剰エネルギー」という視点から考える脱成長論です。

何度も繰り返し、いろいろな原稿で書いているように、人類がエネルギーに関して(実用的なレベルで)有している技術は、「自然界からエネルギーを採り出す技術」であって、「エネルギーを生み出す技術」は手にしていません。

その事実を受け入れるならば、同時に、エネルギーを採り出すにもエネルギーが必要だというシンプルな事実も、受け入れなければなりません。その際に有用な指標が、エネルギー収支比(EROI:Energy Return on Investment)です。EROIに関する最近の研究結果を丹念に追っていくと、どうしても、「余剰エネルギー」について考えざるを得ません。

なぜなら、人類は、余剰エネルギーの範囲を超えた文明を作ることができないからです。あらゆる文明は、余剰エネルギーの範囲内で形成されることになります。

難しい説明をすることもできますが、ものすごくシンプルにザックリと言うならば、人類はやっぱり「自然と共に生きる」しか、この地球上で1つの生物としての人間を次世代に継承していく術はないということです。

この事実を受け入れるところからスタートできる人や組織や街や企業や国家と、この事実を認めようとせず抗うことが「人類の進歩」だとムキになる人や組織や街や企業や国家との間で生じる溝は、この先、大きなものになっていくに違いありません。


書き出しは以下の通りです。

今、世界は、文明論的な大転換点にある。そう考える論者は多い。筆者もその一人である。どうやら、今の延長線上に未来がなさそうだという点では合意ができていても、それがどのような未来で、どの方向に向かって進んでいくべきなのかという点においては、広く合意がなされているわけではない。

 テクノロジーを駆使して、宇宙に新天地を見いだそうと挑戦を続ける人びとから、よりシンプルに「農的生活」を中心とした転換に向け実践を続ける人びとまで幅広い考え方がある。両者の未来観はいくつかの軸において対極にあるように感じられるが、中でも「成長」と「脱成長」をめぐる立場の相違が両者の対話を難しくしている。

 成長派と脱成長派は、ある種のイデオロギー対立の様相を呈しているが、現在の地球社会がおかれている状況を客観的に眺めてみるならば、単なる主義や思想の問題として「論争」を続けていられる段階を既に通り越しているというのが筆者の見立てである。

(中略)

<そして、最後の締めには、「ニュー・ローカル」に向かって動き始めている地方を紹介しながら、以下のような結論で締めることにしました。>

近代という時代は、化石燃料をふんだんに使いながら、自然を「コントロール」するという形で発展してきた。現代的な都市や建物は、熱さにも、寒さにも、雨にも、風にも影響を受けにくくなっている。もちろんこれからも、自然災害への備えには万全を期す必要があるが、単純に「力で自然を押さえつける」だけではなく、自然とどう共生し、寄り添いながら、その恵みを分けてもらうのかという視点から、人間社会と自然との関係性を組み直していく必要がある。再生可能資源のポテンシャルを最大限に引き出すためには、そのような態度が欠かせない。

次のエネルギーシフトは、地元の自然を徹底的に理解するところからしか始まらない。地元の自然は、地元の人間が一番よく知っている。変化の方向性は明らかであったとしても、具体的な中身や方法は、各地域の自然条件によって大きく左右されることになる。いち早くそのことに気がつき、市民、行政、地元企業などの利害関係者が協働しながら、自然と現代社会との関係性を再構築するために数多くの挑戦と失敗を繰り返し続けることが重要となる。ニュー・ローカルの「具体的な姿」は、その先にのみ立ち現れることになるだろう。