都市の寿命と国家の寿命

生あるものは、必ずいつか死を迎え、はじまりがあるものは、いつか終わりがやってくると言われる。そんなことを思いながら、「国家」について考えることがある。近現代の国際社会にとって、国家は極めて重要な存在である。現在のように、新型感染症に対処する上でも、国家は重要な役割を果たしている。無政府主義や国家不要論が勢いを持った時期もあるが、21世紀の今、むしろ優勢なのは国家の重要性を再認識させるような議論である。


こうした議論に異論はない。ただ、ふとした瞬間に、現在我々が「当たり前」だと思っている国家の時代はいつまで続くのだろうかという思いがよぎることがある。人類史的なスパンで考えてみると、近代的な国民国家が存続してきた時間は極めて短い。日本の場合、明治以来、150年程度の歴史があるに過ぎない。

他方、この地球上に人間が暮らしてきた歴史を振り返ると、都市の寿命は、明らかに国家の寿命よりも長い。私がかつて住んでいた、中東のシリアにあるアレッポという街は、約4000年にわたって都市としての機能を維持し続けており、「古都アレッポ」として世界遺産に登録されている。このように都市は自然発生的に成立し得るが、国家は多分に人為的な産物である。また、都市の時間軸は数千年の単位であるのに対して、国家の時間軸は数百年の単位に過ぎない可能性が高い。国家がなくても、世界中でいくつもの都市が存在してきたように、仮にこの先、国家が成立し得なくなっても、都市は変わらずに存続し続けることだろう。

私が、日々暮らしている松本という都市も例外ではないと思われる。国家としての日本が成立するはるか以前から、この場所に人々が集い、社会を作り、日々の営みを続けてきた。松本城や城下町の区画といった文化遺産は、近代以前にもこの街が街であったことを示す確かな証拠となっている。ところで、都市は都市単体で成立し得ないことも忘れてはならない。農産物や木材の供給など、周辺部との有機的な関係がなければ都市機能を維持することはできない。都市部も周辺部も、分かつことのできない「1つのかたまり」として捉える必要がある。この街では、これからもいくつもの命が生まれ、育ち、またその次の命へと紡がれていくことだろう。そんな将来世代に対して、どんな都市としての松本をギフトとして「贈る」のかは、ポストコロナ時代の社会デザインを構想する上で、不可欠な視点だろうと考えている。

(やまもと・たつや、清泉女子大学文学部地球市民学科教授=松本市)