グローバル化時代の国家と個人

新型コロナウイスルの感染拡大が止まらない。各国とも必死の対策を繰り広げているが、目に見えないウィルス相手の戦いは困難を極めている。中国発だと言われているが、いまや、アジア圏はもとより、北米大陸、ヨーロッパ、中東にまで感染が拡大している。グローバルに人が移動する現在では、感染症を完全に封じ込めるというのは困難であるという現実を、改めて我々に示しているかのようである。

「改めて」と書いたのは、2009年に流行した豚由来の「新型インフルエンザ」のことを思い出したからである。発生国はメキシコであると考えられているが、やはり封じ込めは難しく、日本を含めあっという間に全世界に広がってしまった。その前年には、日本で「リーマンショック」と呼ばれている世界金融危機が発生した。局地的に起きた事象が、雪だるま式に膨らみながら簡単に国境を越えて全世界に甚大な影響を与えるさまは、「グローバル化した世界」の象徴的な出来事でもある。

ヒトも、モノも、カネも、情報も、そして感染症のウィルスも、確かに国境の壁などものともせずに飛び越えるが、それは国家という枠組みをも無力化することを意味しない。むしろ、グローバル化の時代に起きた危機対応という側面では、国家の存在と役割が際立つ結果となっている。世界金融危機に際して、破綻しかけた金融機関を救ったのは国家による公的資金の注入であったし、企業の倒産を回避すべく各種支援策を打ち出したのも国家であった。感染症への対応も同様である。検疫体制を強化するのも、必要な医療体制を整備するのも、中心的な役割を果たしているのは国家である。

グローバル化現象が注目されるようになった1990年代から2000年代にかけて、グローバル化が進展するにつれて国境の意味がどんどんと薄れ、国家そのものが衰退するのではないかという議論があった。しかし、グローバル社会が引き起こすいくつかの危機に直面することでわかってきたのは、やはり最後の最後に「防波堤」の役割を果たすのは国家しかないという現実であった。とはいえ、厄介なことに、最後の砦である国家も、何らかの対応策を講じることはできても、問題の解決をすることは難しいということも同時に明らかになり始めている。国家衰退論でも、国家万能論でもないという現実の中、私たち一人一人の個人は何にどう備えるべきか、この機会に真剣に考えておく必要があるだろう。

(やまもと・たつや、清泉女子大学文学部地球市民学科教授=松本市)