「デジタル化」が向かう先の社会

このところ「デジタル」という言葉をよく耳にするようになっている。コロナ禍も、社会の「デジタル化」を後押ししている。今、多くの論者が、われわれの社会は「文明論的な転換期」にあることを指摘している。筆者も同様の見解を有している。

「変わりつつあること」「変わらなくてはならないこと」はわかったとしても、どの方向に向かって変わるのかについては「1つの決まった正解」があるわけではない。ただし、どうやら「デジタル化のさらなる推進」は、今直面する変革のカギを握っていそうである。

デジタル化が進行するようになると、「データ」がより中心的な地位を占めるようになる。データとして記録することができれば、後日参照可能な形で検索をすることも集計をすることもできる。コピーも再配布も、オリジナルに一部変更を加える形での「発展」も容易となる。

現代社会では、あらゆるものがネットにつながれ、常に新しいデータが生成されている。かつてはこうしたデータがあまりにも膨大過ぎて扱いきれなかったが、最近ではコンピュータの処理能力の飛躍的な向上も手伝い、膨大なデータをそのまま全部扱えるようになってきた。いわゆる「ビッグデータ」である。

人工知能(AI)の発達も著しい。たとえば、広告を売ることで収益を上げている各ソーシャルメディア企業は、AIを駆使して投稿内容やアプリの利用状況を分析しており、近年の研究によると「本人以上に、当人の性的指向、民族、宗教的信条、政治的見解、個人的特徴、知性、薬物の使用、親の離婚の有無、年齢、性別などを正確に把握している」ことが明らかになっている。

こう書くと、あたかも筆者がデジタル化に反対しているかのように聞こえるかもしれないが、そういうことではない。デジタル化に懸念があることは事実であるが、希望や期待も極めて大きい。社会がデジタル化しようがしまいが、社会を構成するのは、身体性を伴ったアナログな存在としての私たち一人ひとりである。問われているのは、デジタル化を「進めるか進めないのか」ではなく「どのように進めるのか」である。使い古された表現であるが、デジタル化は手段であって、目的ではない。デジタル化のゴール、デジタル化社会の向かう先は、常に生身の人間であるべきだと考える。私たちの取り組むデジタル化の先で、人々が笑っているか、みんなが幸せを感じられているか、この軸をぶらしてはならない。

(やまもと・たつや、清泉女子大学文学部地球市民学科教授=松本市)