夕暮れの散歩
この街では、お散歩は午前中と夕食後に限る。日中は、照りつける太陽が暑すぎるから……。
特に気持ちがよいのは、サンセットの時間。滞在先の目の前のビーチに沈みゆく太陽を眺めながら、刻々と変わっていく空の色をゆっくりと眺めるのが好きだ。

サーフィンを楽しんだ人も、次々と家路につく時間帯。そんな中、ビーチに腰掛け、深呼吸しながら、波の音に耳を澄ませてみる。最近お気に入りの、一日の締めくくり方だ。
山本達也のウェブログ。日々の生活で気づいたことをコツコツと・・・
2010年8月13日
この街では、お散歩は午前中と夕食後に限る。日中は、照りつける太陽が暑すぎるから……。
特に気持ちがよいのは、サンセットの時間。滞在先の目の前のビーチに沈みゆく太陽を眺めながら、刻々と変わっていく空の色をゆっくりと眺めるのが好きだ。

サーフィンを楽しんだ人も、次々と家路につく時間帯。そんな中、ビーチに腰掛け、深呼吸しながら、波の音に耳を澄ませてみる。最近お気に入りの、一日の締めくくり方だ。
2010年8月 5日
この街では、ファーマーズマーケットが、いろいろな場所で開催されている。大規模なものから、こぢんまりとしたものまで様々なようだ。
地元のものを地元で、そして生産者から直接買うことのできるファーマーズマーケットは、大変魅力的だ。日本でも、もっと増えて欲しいところだけど……。石油減耗後のコミュニティを考えるにあたっても、重要な取り組みだ。なにしろ、訪れてワクワクするし、楽しい、というところがいい。
「Ono」というのは、ハワイ語で「美味しい」という意味らしい。子供たちが、アイスキャンディを買い求めていた。なんとも、ほほえましい光景だ。
中には、ちょっとした「屋台」の食べ物屋さんもいくつかある。ハワイらしい「屋台」も発見。滞在中に「Ahi」(まぐろ)料理を一度はトライしたいところだ。
一通りファーマーズマーケットを満喫した後は、ハワイアンの生演奏を聴きながら、すぐ脇の芝生で娘と遊ぶ。ゴロンと横になって、上を見上げたら、きれいな空が広がっていた。
この景色は日常なのか、非日常なのか……。残念ながら、現時点では、まだ、非日常なのかもしれない。でも、いつか、この時間、この感覚を、日常の一部にしていきたい。そんなに難しいことではないはずだ。人生プランも、シンプルに、柔軟に……。
2010年8月 3日
旅にやってきた。今回も旅のテーマは、「暮らすように旅をする」。だから、早速、地元のオーガニックスーパーに行き、玄米や地元の野菜を仕入れてきた。
そして、朝は散歩。力強くも、いい具合に力の抜けた公園の木。

道に咲くハイビスカスの黄色い花。

照りつける太陽と共に頬をなでながら抜けていく心地よい海風。いつもとはちょっと違った散歩道。非日常がだんだんと日常に変わっていく。いつの間にか当たり前のようになってくる。この感覚が心地いい。
2010年7月11日
人は誰も、自分の暮らす文明が永続するものと思いがちだ。慣れ親しんだ価値観やライフスタイルが「崩壊」してしまうかもしれない、と想像することは難しい。
しかしながら、メキシコ湾沖で発生した海底油田の事故に関するニュースに触れていると、本気で「文明崩壊」という言葉が頭をよぎる。
なぜか?そのことについて書いたコラムが公開されました。
原油流出事故は「文明崩壊」のシグナルか?:ピークを越えてしまった「複雑系」社会(JBPress)
繁栄を極める現代文明も、実は我々が認識しているよりもはるかに脆弱である可能性がある。そして、「崩壊」は、ホンの些細な出来事から一気に引き起こされることになるだろう。
そうならないためにどうするのか。まずは、「認めがたい現実」に対して「拒絶」や「怒り」という感情で向き合うのをやめ、自らの頭で冷静に判断し「認める」ところからはじめる必要があるだろう。
2010年6月 5日
ここ数年、象と鯨が気になって仕方がない。先日、ハワイに数週間滞在していた友人が、「泊まっていた部屋の窓から鯨が見えた」なんて話をしていたけど、うらやましい。いつか、そんな体験をしてみたいと思っている。
なぜ、気になるのか自分でもよくわからないけど、多くの大人が(もちろん子供も)、象と鯨に恋をしているようだ。私個人をというより、何か人類を惹きつけるものがあるに違いない。
そして、誕生日の今日、翻訳が出版される前から予約をし、出版後すぐに手に入れたにもかかわらず、本棚の「すぐに読む本コーナー」にしまわれたまま、になっていた『エレファントム』をどうしても読みたくなり、空き時間を利用して、むさぼり読んだ。

ライアル・ワトソン(福岡伸一・高橋紀子訳)『エレファントム:象はなぜ遠い記憶を語るのか』木楽舎、2009年。
素晴らしい内容。本当に夢中になって読んだ。そして、海岸で象と鯨が対面する情景を描いたくだりには心を打たれる。
太母(あるメスの象)は、この鯨に会いに来ていたのだ。海で最も大きな生き物と、陸で最も大きな生き物が、ほんの100ヤードの距離で向かい合っている。そして、間違いなく意思を通じ合わせている。(中略)
大きな脳と長い寿命を持ち、わずかな子孫に大きな資源を注ぎ込む苦労を理解する者たち。高度な社会の重要性と、その喜びを知る者たち。この美しい稀少な女性たちは、ケープの海岸の垣根越しに、互いの苦労を分かち合っていた。女同士で、太母同士で、種の終わりを目前に控えた生き残り同士で。(286頁)
そして、「科学的」であることについて、最近の私のもやもやした気持ちに、一つの方向性を示してくれている作品でもある。今、世の中でスタンダードになっている「学問」の体系は、何とも窮屈だ。いつか、この本くらい、ドカンといってみたい。
私たちが世界を認識するときには、必然的に種としての偏りが生じている。私たちは目ではなく、心で世界を見ている。現実の体験というのは選択的で主観的なものだ。限られた部分だけを捉え、さらに経験と期待に基づいてそれらを並べ替える。物事を型にはめ、限られた情報をふるい分けて、受け取ったものを理解可能な形にする。こうした理解が恣意的なものであることは「同感性」という言葉にも明確に表れている。この言葉は集合的な感覚、つまり、同じ文化的制約のもので生きる人々のあいだで共通した反応を指す。そうして体験した物事は、かなり多くの人々によって妥当だと認められるかもしれない。しかし、それが「現実」の世界に存在する物事に一致しているとは限らない。(328-329頁)
「常識」なんて「偏見」の寄せ集めだ。誰かの作った「常識フィルター」だけで世の中を見るなんてつまらない。本当に見るべきものが見えなかったり、見落としてしまう可能性が高い。
35歳の誕生日の日に、この本を本棚から取り出したことは偶然ではないだろう。本には読まれるべきタイミングがある、と思う。たぶん、この本は、今日まで待っていてくれたのだろう。かすかな興奮と共に、誕生日の夜を終えられそうだ。そして、象と鯨は、これから私に大切なことをいろいろと教えてくれることになるに違いない。
2010年6月 4日
石油ピークついて考え、今後の対策を検討するにあたっては自然エネルギーが注目されることになる。今後、自然エネルギーは重要な存在としてクローズアップされることになるだろう。それは間違いない。
しかし、自然エネルギーを「量」だけで捉えて、「過大評価」すべきではない。エネルギーを考えるにあたっては、「質」を考えなくてはならない。
ここで留意すべきは、エントロピーの法則、EPRなどの指標である。これらを無視したエネルギー論は、破綻する可能性が高い。
そして、エントロピーの法則を考えつつ自然エネルギーを捉えるならば、「分散したものは分散したまま使う」というコンセプトが浮かび上がる。こうなると、エネルギー論は地方分権論ともリンクすることになる。
これからの「エネルギーシフト政策」を模索するにあたっては、これまで日本が得意としてきた「エミュレーション・モデル」(模倣+アルファ)というモノまね思考を脱した方が良い。エミュレーション・モデルは、おそらく通用しない時代になる。
……といったことについて書いたコラムが公開されました。
自然エネルギーを過大評価するな!:たくさんあるだけでは、問題は解決しない(JBpress)
他国の取り組みはとかく魅力的に見える。「隣の芝生は青い」のだ。しかし、それをそのまま輸入して、多少アレンジ……という時代は終わっている。そのことにもっと自覚的になる必要があるだろう。
2010年5月31日
BP社が発行する2009年版の統計年鑑(BP Statistical Review of World Energy 2009、6ページ)によると、世界には枯渇までに42年分の石油が残っているというデータが掲載されている。
「42年分?以前にも同じような数字を聞いたことがある。それから何年も経つのに減っていないではないか。技術の進歩の結果だろう。石油について当面は心配する必要はない」といった声が聞こえてきそうである。
数字自体は信頼できるデータに基づいている。ただし、この種の数字はエネルギー問題を考える上ではあまり役に立たない。枯渇までの年数に関しては、その時点での可採埋蔵量(R)をその年の生産量(P)で単純に割り算するというR/Pが指標として使われている。42年という数字はその結果である。
しかしながら、この指標はその年の時点での「静的」な状況を表しているに過ぎず、技術革新によって将来的に可採埋蔵量が増加することや、時間軸に沿って生産量が増減する「動的」な変化を捉えることができないことから、将来予測の指標として十分なものではない。
石油業界が相変わらず楽観的な見通しを発表し続けている中、感度の高い政府機関の中には「石油ピーク論」を真剣に捉え、目前に迫りつつある危機に備えようとする動きも見られるようになってきた。
たとえば、2010年3月22日には、イギリスのエネルギー・気候変動大臣が石油ピークに対する政府の対応を話し合うための会議に出席している。この会議は、参加者はここで得た情報を自由に利用可能だが、発言者の特定をしてはならないという、いわゆる「チャタム・ハウス・ルール」(Chatham House Rules)のもとで行われたため、エネルギー・気候変動大臣の石油ピークに対する認識を知ることはできない。しかしながら、イギリスの『ガーディアン』紙は、こうした会議に大臣が出席したこと自体が「政府の重要な政策転換」であると報じている。
同様に、アメリカ軍は、統合戦力軍(US Joint Forces Command)による報告書『統合作戦環境報告』(The Joint Operating Environment Report 2010、29ページ)の中で、「2012年までに石油生産の余剰能力は全くなくなり、2015年には日産1000万バレルの供給不足に陥るだろう」とするエネルギー展望を示している。
アメリカ政府はエネルギー省を中心に極めて楽観的な石油の将来予測を示し続けているが、石油の動向が組織にとって死活的な問題を与えるアメリカ軍は「石油ピーク論」を認める形で極めて現実的な認識を有していることが読み取れる。
つまり、「知っているところは知っている」のであり「わかっているところはわかっている」ということである。楽観的な「公式見解」と別のところでは、すでに現実的な対応が検討されている。これが国際社会である。いつまでも「公式見解」に拘泥していると、いつの間にか取り残されてしまう可能性がある。
日本では、相変わらず「42年分!」的な議論が幅をきかせている(ように思う)。問題は、「枯渇」(running out)ではない。供給ピークの後に訪れる「減耗」(depletion)であり、そのことによる需要と供給との「乖離」である。
R/P指標の世界に決別し、EPR(Energy Profit Ratio)を軸としたエネルギー論を展開すべき時期にさしかかっている。残された時間はそれほど多くない。なにしろ、エネルギー・シフトには恐ろしく長い時間を要するのである。今、目を覚まさなくては、いつ目を覚ますのであろうか?
2010年5月30日
昔から旅行が好きだったが、最近また旅行のことについて考えることが多い。今、興味があるのはこんな旅行だ。
「住んでいるかのような旅行」
非日常としての旅行ではなく、その旅を日常の一部にしたいと思っている。そのためには、ある程度の日数が必要だ。自然とその街に溶け込み、そこで暮らす人びとのように時間を過ごせたらと思っている。
早速、この夏にも計画は進行中。いつか旅の本も出してみたい。そんな計画を、こうした旅のあり方に賛同してくる「同志」たちと話し合っている。
ついでながら、延長線上にもう一つの目指している生活スタイルがある。それは、「旅をしているかのように生活する」というものだ。
旅行中は、どんなに長い旅であってもスーツケース1個にすべてを詰め込まなくてはならない。そして、過去の経験では、それで1ヶ月間旅行し続けることもできる。スーツケース1個分の荷物があれば生きていける、ということである。
今、自分の周りを見回すと、特に必要がないモノがチラチラと目に入る。いずれ、処分することにしたい。いつでも身軽に動ける態勢を整えておこうということだ。自分の身の回りのモノがスーツケース1個分くらいに収まるようにしてみたい。そうすれば、いつでも次の行動に移れる。
これからの時代、小回りがきいた方が有利だ。図体の大きかった恐竜は絶滅してしまったが、その恐竜の足下でちょろちょろと走り回っていたネズミ(の祖先?)は生き延びた。
「住んでいるかのように旅をして、旅をしているかのように生活する」
このゲームに慣れてくると、生きていくのに必要なモノとそうでないモノとの鑑識眼が養われるに違いない。人生にとって不必要なモノにまみれていると、人生に本当に必要なモノが見えにくくなってしまうのではないか。畑仕事をしながら、ふと、そんなことを考えた。
2010年5月25日
昨年から続いていた出版プロジェクトの成果が、無事に刊行された。

岩崎正洋・西岡晋・山本達也編『政治の見方』八千代出版、2010年。
今回出版されたのは、純粋な学術書ではなく、学部の1年生など政治学の初学者を主な対象とした「政治読み物」だ。「教科書」ともちょっと違う。もちろん、政治や政治学に関心のある一般の方にも広く読んで頂けることを念頭に執筆されている。
今回は、はじめて「編者」として本作りに参加させて頂くという大変貴重な機会を得た。執筆させて頂いたのは、、、
第8章「地球環境に限界はあるのか」
第9章「グローバル化が当たり前なのか」
第10章「メディアの影響力は大きいのか」
コラム「共有地問題」
コラム「ネットが変える政治」
の各章とコラム。
特筆すべきは、第8章。ここでは、ハバートやキャンベルらの名前を出しながら「石油ピーク」の話にも触れている。恐らく、政治学の教科書的読み物として「石油ピーク」について触れた初めての本だろう。
その他の章も、政治学の初学者に政治や政治学に関心を持ってもらえるよう気を配ったつもり。他の先生方の章も、トピックごとに論点がコンパクトにまとまっている。
是非、ご一読を。
2010年5月 5日
昔から、コーヒーが好きだとは気づいていたが、どうやら本当に好きみたいだ。特に、松本珈琲工房の松本さんと出会ってからというもの、コーヒーのことを考えるだけでワクワクする。
昨日は、そんな松本さんから、ご自宅でのランチのお誘い。カフェ兼自宅の建築はとても素敵な建物なのだが、1階がカフェで2階がご自宅になっている。この建物が素敵なのはある意味当たり前。何しろ、松本さんのもう一つの顔は建築家だ!ご自分で設計されている。
で、天気のよいGWの休日に、中庭でのBBQランチを一通り頂いた後での松本さんの一言。「食後に豆でも焼きますか?」
食後にコーヒーでも、という話になって、「じゃあ、豆を挽きますね」という経験は何度もある。実際、我が家でも、お客さんにコーヒーをお出しする時には、豆を挽いてからコーヒーを淹れている。
でも、「食後に豆でも焼きますか?」というのは、初めてのフレーズだった。さすが、コーヒー屋さんのご主人。
昨日は、生豆として「ブラジル」と「エチオピア」を用意しておいてくれたのだが、今回は初めての体験ということもあって、大好きな「エチオピア」をリクエスト。

簡易コンロを使って、簡易焙煎器での焙煎。この器具を使えば、キャンプの時でも、焙煎したてのコーヒーを楽しむことができるそうだ。

松本さん、「エチオピアにしてはちょっと火を入れすぎたかな……」なんて言っていたけど、飲んでみたらとっても美味しかった。エチオピアの場合、煎りすぎると「苦み」が出てきてしまうのだそう。なるほど。

帰りには、エチオピアの生豆をお土産に頂いた。今度は、我が家でも簡易焙煎器を導入しなくては。だんだんと、コーヒーの奥深さと魅力にとりつかれてきた。でも、楽しいしワクワクする。たぶん、その気持ちが重要だ。
2010年4月24日

天気の良い土曜日。松本珈琲工房のオーナー松本さんが主催しているコーヒー教室に参加。今日のテーマは、コーヒーの「カッピング」を通した産地別コーヒーの飲み比べ。松本さんに1対1でいろいろと教えてもらい、とても貴重な体験をした。
松本珈琲工房で扱っているコーヒーは、コーヒー界のトップに位置する「スペシャリティコーヒー」。「カッピング」とはワインのテイスティングのようなもの。スペシャリティコーヒーの等級付け(グレーディング)を行うための手法だ。
今回は、アメリカのアメリカスペシャリティコーヒー協会(SCAA)のジャッジシートを使っての実習。評価項目は、香り(お湯を注ぐ前(フレグランス)とお湯を注いだ後(アロマ)の両方でジャッジ)、フレーバー、アフターティスト、酸味、ボディ感などなど10項目からなり、それぞれ10点満点で採点する。したがって、満点が100点ということになる。

実習は、第1セッションでAとBのカッピング。第2セッションでCとDのカッピング。第3セッションで、A〜Dまでのどれか1つが出てくるので、それをあてるというもの。
今回は、Aがエチオピア、Bがブラジル、Cがガテマラ、Dがケニアだった。コーヒー豆といっても、産地が違うと全然特徴が違う。そして、地理的に近いと比較的共通点もあるから面白い。
第1セッション、第2セッションで念入りにコーヒーの特徴を確かめ、迎えた緊張の第3セッション。評価対象の豆がカップに入って出てきて、お湯を注ぐ前の香り(フレグランス)をサッと嗅いだだけで、「あっ、エチオピアだ」とピンときて、すぐに「Aですよね」と言ったのだが、松本さんに「えっ、本当にAでいいですか?」と振られたとたんに不安になる。
「やっぱり、お湯を注いだ状態でもチェックして、答えを出します」と慎重を期した時には頭の中が(鼻も)大混乱。絶対にBとDではない、と2つを消したものの。Cと迷ってしまう。
こうなるともうダメだ。結局、大混乱のまま「C!!!」と答え、大外れ。AとCの2つを並べられて、どちらがエチオピアでどちらがガテマラか、ということならすぐにわかると思うが、1つだけをジャッジするのは想像以上に難しい。
くやしいなぁ。コーヒー修行の道。まだまだ続きそうだ……。
2010年4月20日
技術は大切だ。道具を使うチンパンジーはいるが、(自然状態で)道具を作ることのできるチンパンジーはいない。
道具を作るという行為は、人間に独特なものであり、他の動物との大きな差異をもたらしている。道具を作る技術もあれば、道具を使う技術もある。技術は人間が人間として生きてきた証でもあり、人間として生きることの本質にも関わるものに違いない。
しかしながら、技術は万能ではない。技術がすべての問題を解決してくれるわけではない。それにもかかわらず、「テクノロジーが問題を解決してくれる」という思い込みにとらわれている人は意外と多いように見受けられる。
そして、人は「より複雑で、自分では仕組みや構造すら理解できないような技術や道具」をありがたがる傾向にある。自分が理解できないことは、スゴイものに違いないという思い込みだ。
同じことが、よりシンプルで単純なものでも可能であるにもかかわらずである。
「次世代自動車」への人びとの期待も同じようなことなのかもしれない。何だか、複雑な技術が、不可能を可能にしてくれるのでは、という淡い期待だ。
でも、たぶん、それは思い込みに過ぎないのでは、と疑っている。
……そんな問題意識で書いたコラムが公開されました。
エコでないエコカーは救世主に非ず:石油問題はリチウムでは解決できない(JBpress)
繰り返すが、技術は重要だ。でも、技術を盲信しないこと、技術に頼りすぎないことはもっと重要だと思っている。
2010年4月15日
執筆者の先生からの頂きもの。

名古屋大学大学院環境学研究科他編『持続性学:自然と文明の未来バランス』明石書店、2010年。
2005年に、「愛・地球博」の万博を記念して行われたシンポジウムを元に編集された本。随分に前の話だが、恐らく、まだ当時は、この本の内容のようなことが広く理解される環境になかったのだろう。
執筆者の一人である先生によると、2010年になって「やっと、世間の状況が追いついてきた」ということらしい。今こそ、ここでの議論をもう一度世に問いたいということだ。
実際、最近やたらと出版される環境本の中では「やや異色」である。しかし、正論だ。特に、第一部(第1章から第4章まで)は、多くの人に読んでもらいたい。
「地球は有限である」という、誰もが知っていながら、意外と忘れ去られてしまうシンプルな事実を踏まえた論理構成は説得力がある。
そして、文明論として、「モンスーンアジア」という括りで発想することの面白さも伝わってくる(第3章「環境考古学からみた持続可能性」)。
同時に、「男社会」(イースター島)が崩壊し、「女性ががんばれる社会」(タヒチ島)が崩壊しなかった、という指摘も示唆に富む。
人類の半分は女性なので、当たり前と言えば当たり前のようだが、これが当たり前に実践できている社会は世界的にも貴重だろう。果たして日本はどうか、と思わざるにはいられない。
2010年3月16日
「代替」エネルギーという呼び方は、実に誤解を与えやすいネーミングだ。「石油などの化石燃料に代わる」という意味で用いられているが、厳密には石油を文字通りに「代替」できるだけのエネルギーを我々人類はまだ知らない。
今、我々に突きつけられているのは、この状態での「エネルギーシフト」という課題である。
数学の問題などに取り組んでいると、ある特定の思考回路に陥ってしまったばっかりに、いくら一生懸命考えても答えにたどり着けないことがある。答えを聞くと「な〜んだ」という気分になることもしばしばだ。「あ、逆から見ればよかったのね……」など、気がつけば簡単なのだが、思い込みをしていると「見えない」ことがある。
エネルギーの問題も似たところがあるように感じている。石油は極めて優れたエネルギー源である。それを「代替」できるエネルギーはない(今のところ。そして恐らくこれからも)。
この問題は「現状維持」、ないしは「現状の発展形」という前提でいくら考えていっても深みにはまるだけで、答えにはたどり着けないように思われる。次の世界は、この「現状維持」の発想を捨て去った先にしか見えてこないだろう。
……ということについて書いたコラムが公開されました。
石油を「代替」できるエネルギーなど存在しない:原発も自然エネルギーも魔法の解決法ではない(JBpress)
今求められているのは、柔軟な、自由な発想で、次の時代を構想する想像力と創造力である。
2010年3月 3日
最近、「人生初」の買い物が続いた。まずは、雛人形。娘の初節句が近づき、ネットなどで情報収集するも、情報が多すぎて何だかよくわからない。
とにかく一度実物を見ようということで、名古屋に越してきてすぐに住んだマンションの近くにある人形屋さんに行くことにした。

店内には、たくさんの素敵な雛人形があったのだけど、なぜか、この小さな雛人形に一目惚れ。見ていると背筋がピンと伸びるような雰囲気に惹かれたのだと思う。お店に入った時には買うつもりなどなく、どんなものか見るだけだと思っていたのだけど、どうしても気になり、その場で購入。
作者は、愛知県蒲郡市に工房がある女性の人形作家さん。意識したわけではなかったけど、地元の作家さんの作品だと知ると余計に愛着もわく。こういった買い物は「出会い」だとつくづく思う。狙ってもなかなか出会えない。
いつか娘がお嫁に行ってしまうのか、と思うとちょっぴり寂しいけど、娘には充実した幸せな人生を歩んでいって欲しい。そんな願いと共に、毎年この雛人形に会えると思うと、春が何だか楽しみになる。

もう一つの初物が、備中鍬。日本史の教科書には出てきたけど……という代物。
近所に畑を借りたので、この道具は必需品。そろそろ種まきの季節になってきた。どんな野菜がどんな成長を遂げ、どんな病虫害に弱いのか……などなど、実際に土いじりしながら勉強していきたい。
ここにきて、ちょっとした人生の転換点を感じる2つの初めてのお買い物。いつまでも大切に付き合っていきたい。